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執筆者の写真バルセロナ日本語で聖書を読む会

月報 No.180(2020年 2月)3 本の十字架


3 本の十字架


ルカによる福音書23 章 33 43 節

イエス・キリストが二人の犯罪人と共に十字架につけられたことは歴史的に実証されている事ですが、この事実を 2000 年前にイスラエルで起こったことで自分とは関係ないと考える人は多い。 特にイエスを拒む人たちはそうでしょう。 しかしイエスは 、 彼を拒む 人々 によって刑に処せられることになったという点で、この日 、 十字架の周囲にいた人々は、 現在イエスを拒む、 全世界の人々の代表者 たち と言えます。


主は十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われました。 23:34 私 がイエス・キリ ストを信じる前は、 「彼ら」は十字架の周囲にいる 人の事 だと理解していました。しかしこの十字架刑が私の罪のためだとわかっ た時 、「彼ら」の中に私自身がいることに気が付きました。「彼ら」の部分にあなた自身の名前を入れてみてください。 今の私は、自分がイエスを十字架につけたというこ とを自覚しています。私は現場にはいませんでした が、私の罪がイエスを磔刑にしたことは動かない事実です。この私自身がイエスの手に釘を打った。 このように、この言葉が自分に向いていると理解しているのが、イエスを信じる者です。 このことは非常に大切なこと です。


人間の愛 は Give & Take が基本なので、 愛する者のため 、それにふさわしい相手のためには愛情を注ぐ ことができる ものの 、自分を殺そうとする人のために命を投げ出 すほど愛 し、さらに前述のような祈りをささげることはできない。 イエスの両側にいた受刑者は 愛されるに値し ない重罪人だっ た。でも イエス は自分の命を捧げるにふさわしくない、自分をののしる者のために祈り、両脇の重罪人 らをも愛され まし た。 人に認められず、絶望 に 嘆 き 、 自分は 人に愛される価値などないと思う人も、イエスに、神に愛されている のです 。 イエスの愛は、それを受ける 価値がある人だけではなく、全ての人に注がれています。


イエスの両隣の受刑者たちは最初、共にイエスをののしっていまし たが、そのうちの一人はイエスが彼のためにも祈る崇高な姿を見、イエスが神の子であることに気が付いて悔い改め まし た。そしてその瞬間に彼は主に認め られ救われた のです 。彼は未信者の代表者です。おそらくは礼拝に行ったこともなく、奉仕もせず、洗礼も受けていないが救われた。つまり、どのような人でも 、いつでも、 イエスを救い主として受け入れるならどのような状況でも救われるのです。


そして救いの条件は信じる事だけです。逆を言えば、 何等かの行為に よって救われるのではない ということ。よく、「私はまだ聖書をよく読んでいないので洗礼は受けません」と おっしゃ る方があるが、ではどこまで読み込めば、何回読めば洗礼を受けるレベルに達するのでしょう。前述の犯罪人だってそのような行 為は 一切 なかった。 彼は ただイエスが神の子であるという噂を聞いたことはあり、 受刑中に それを事実として確認し、 イエスを 受け入れ、自分の罪を悔い改めたから救われたのです。



いくら幼児洗礼を受けていても、家庭がキリスト教でも、ずっと教会に通っていても、自分が罪 人 であったと自覚して悔い改め、イエスを神の子と受け入れなければ救われないのです。イエスと共に受刑したもうひとりの犯罪人は、これができなかったので救われないまま死んだのです。イエスは悔い改めた受刑者に言われまし た。「今日、あなたは私と一緒に楽園 (天国 にいる」 と。 悔い改めた人は 間髪入れず 直ちに救われる ということです 。


洗礼を受けた クリスチャンでも 、 絶望する程の事態に逢って初めて真に神の救いを求め 、 真の信者になることがあ ります 。自分の力で人生を切り開いていると思っているうちは真の救いに気づかない。ただ 真心から主を求め る事。その 時、あなたは主と共に 天国 に 迎えられるのです 。


3 本の十字架があり、中央がイエス様、その両隣に悔いめた罪人と、悔い改めない罪人がいる。あなたはどちらか。主を心に受け入れることを、心からお勧めします。


北島 嗣郎 伝道師


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