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執筆者の写真バルセロナ日本語で聖書を読む会

闇に輝き続ける真の光 (2021年12月、月報No.202)

更新日:2021年12月20日

藤田 英夫 牧師 (大阪姫松教会) ヨハネによる福音書1章 1-18節

みなさんはニルスのふしぎな旅というお話しをご存じでしょうか。これを書いたラーゲルレーヴという人が「ともしび」というとても印象的な短編を書いています。物語の舞台は十字軍の遠征が行われていたころのフィレンツェで、その町に住むラニエロという男が主人公です。


彼は腕っ節が強く、どんな相手にも負けたことがありません。けれどとても乱暴者で、彼の妻が大切にしている鳥をい殺したり、妻の弟を酔わせて脱がせた服をかかしに着せたりするものですから、妻は父のもとへ帰ってしまいます。するとラニエロは妻にもどってきてもらうため、自分がどんなに勇敢で、立派な人間かを分からせようと、傭兵となって戦争に行き手柄を立てます。そして戦いごとに最もよい戦利品をフィレンツェにある教会に献げました。そうやって、妻に自分を認めてもらおうとしたわけです。しかし、妻はいっこうに帰ってきません。


それで彼は十字軍に参加します。その戦いでも彼は1番の勇士と認められ、褒美として彼は、主イエスの墓とされる場所の前にあったともしびから火を取ってろうそくに火をともす役目に任じられます。この戦いの中でいちばんの戦利品とされたのはこのろうそくの火でした。しかし、その夜、酒の席でラニエロは、戦利品として得たろうそくの火をエルサレムから故郷フィレンツェまで消さずに持ち帰れると豪語してしまい、引っ込みがつかなくなって、このともしびを消すことなくフィレンツェまで運ぶことになってしまいます。


そして翌朝から、ラニエロの苦難の旅が始まりました。火を消してはなりませんから、彼は馬に後ろ向きに乗り、風を防ぎながら、ゆっくり、ゆっくりと進みます。途中強盗に襲われますが、火が消えてしまうので、強盗たちと戦うこともできません。彼は仕方なく話しあって強盗たちに好きなだけ持っていかせたため、彼の手もとに残ったのはろうそくと、やせた馬と、ぼろガッパだけになります。


その後も、十字軍の兵士を恨んでいた山羊飼いにさんざんに打ち据えられたり、みなから変人扱いされたり、嵐に見舞われたりして、何日も、何日も苦労に苦労を重ねながら、後ろ向きに馬に乗って旅を続けていき、ようやくフィレンツェにたどり着きます。


しかし、いよいよ教会に着いた時、彼の持っている火が本当にエルサレムからここまで消えずに届けられたものだと言う証拠を出せと言われ、行き詰まってしまいます。そのとき、一羽の鳥が飛びこんできて、ろうそくにあたって火を消してしまいますが、そのかわり、その鳥の羽に火が燃え移り、その火が教会のろうそくに燃え移って火をともします。みなはそれを見て、神ご自身が証しを立ててくださったと言って、ラニエロを信用したのでした。


こうしてラニエロの苦労は報われるのですが、しかし、この物語で一番大きい出来事はそのことではありません。このろうそくの火を運んでくることによって、ラニエロがすっかり変わってしまったのです。以前は腕っ節が強くて乱暴者だった彼が、この小さいともし火を守ることを通して、忍耐することを学び、小さいものや弱いものを大切にすることを学びました。もはや戦争で手柄を立てることに喜びを感じなくなり、ごく普通の日常生活を営み、当たり前のように自分の仕事にいそしむ暮らしに心がなごむようになりました。彼は、この小さいろうそくの火によって造りかえられたのです。


ろうそくの火など、ちょっと息を吹きかければ消えてしまう、はかないものです。けれど、そのはかなく小さい炎を守りながら進むことがラニエロを変えていきました。わたしたちにとって大切なものは、案外、このろうそくの火ように、ちょっとしたことで消えたり、壊れたりするものかもしれません。

小さいものや弱いものに関わりながら生きていくことは、ラニエロが味わったような忍耐や謙遜さを必要とすることであって、わたしたちにとっては本当に難しいことだと言わざるを得ません。


わたしたちにとっては、かつてのラニエロのように、力を自慢し、称賛されることを喜ぶ生き方のほうがずっと性に合っている気がします。そして、今という時代は、そのような生き方がもてはやされ、多くの人がそれを求めている時代だと言えるかもしれません。しかし、わたしたちにとって本当に必要なのは、忍耐しながら、小さくて、もろいけれども大切だというものを、守りあって生きることなのではないだろうかと考えさせられます。


主イエスご自身、そのように生きられたお方だと思います。主は、弱いものの弱さを理解することができ、苦しむ者、悲しむ者の傍らに立って、その苦しみや痛みを共に負うことがおできになり、最後には全ての人の身代わりとなって十字架につくことさえ引き受けるほど、貧しいもののためにご自分のすべてをささげてくださいました。この主イエスのもとで、わたしたち自身が変えられていくということが起こる。それが、主イエスをわたしたちのうちにお迎えするということかもしれないと思いました。


『光は闇の中に輝いている。』 聖書はそう語りかけます。闇の深さに比べたら、こんな小さなものが何の役に立つだろうといわれてしまうようなものかもしれません。


主イエスは生まれてすぐ飼い葉桶に寝かされ、貧しい羊飼いに拝まれるような、ごく貧しい姿でお生まれになりました。それは、世界の片隅に小さな、小さなともしびがともるような出来事です。その明かりでとたんに世界中が明るくなったというわけではありません。この世界は、主イエスがお生まれになってから約2000年がたった今も、深い闇の中にあると言わざるを得ません。その闇を前にすれば、クリスマスにともされたあかりは、消そうと思えばすぐ吹き消してしまえるような、はかない炎でしかないようにも思えます。


しかし、このお方のともしてくださった小さなともしびを心の中に宿し、これを大事に守って生きていくなら、わたしたちはこの小さなともしびによって変えられていきます。ともしびが小さくてはかないものだからこそ、変えられるのです。


教会はこのともしびを、時代を越えてともし続けてきました。というより、教会がこのともし火に守られ、支えられて来たと言うべきなのでしょう。このともし火はどんなに深い闇の中でも、決して消えることなく、輝き続けてきました。


主イエスというお方、そしてそのお方がもたらしてくださった恵みは真実なものであって、どんなことがあっても、恵みそのものであり続けたからです。だからこそ信じるものが起こされたし、信じるものの集まりである教会は失われることなく立ち続けてくることができたのです。


神が灯してくださった明かりは、世界全体から暗闇を一掃したと言えるほど大きくも、強くもないように見えるかもしれません。しかし、この明かりは、人を新しく変えていきます。この光は、確かに、この世に輝く希望の光として輝き続けてきたのです。


クリスマスのこの日、主イエスがこの世においでくださったことによってともされた小さな明かりを、わたしたちも大切にしたいと思います。そして、わたしたちもまたこのお方によって変えられていきたいと願います。クリスマスを祝うわたしたちに本当に求められているのは、そのことのように思います。



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